ゴールデンウィークに訪ねた足尾銅山🥰
銅山から見えた、繊維と日本近代化の物語
ゴールデンウィークに、以前から気になっていた足尾銅山へ行ってきました。
足尾銅山は、現在の古河グループの元となった鉱山として知られています。
古河財閥の創始者である古河市兵衛は、もともと鉱山一筋の人物だったわけではありません。
国立国会図書館の人物紹介によると、古河市兵衛は幼少期から丁稚奉公や行商を経験し、その後、小野組に入り、生糸貿易に手腕をふるった人物でした。小野組の破産後、1875年に東京で古河本店を開設し、渋沢栄一らの資金援助を受けながら、銅山を中心とした鉱山経営へ進んでいきます。
つまり、古河グループの出発点をたどると、いきなり鉱山ではなく、
生糸、つまり繊維の商いに深く関わっていた人物が、のちに鉱山王になった
という流れが見えてきます。
ここが、とても面白いところです。
明治の日本は、何を輸出していたのか
明治時代の日本は、今のように自動車や半導体、機械を輸出していた国ではありませんでした。
明治初期の日本の主な輸出品は、
生糸、茶、水産物でした。
一方で、輸入していたものは、綿織物、毛織物、砂糖、鉄類などです。税関の貿易史資料では、明治初期の輸出品の中でも特に生糸・絹織物が大きく、輸出額全体の約4割を占めていたとされています。
つまり、当時の日本にとって、外貨を稼ぐ最大級の商品は、
鉱物でも機械でもなく、絹・生糸という繊維関連品だった
ということです。
さらに、明治・大正から昭和初期にかけても、蚕糸類の輸出は日本の総輸出額の大きな割合を占め、近代化の資金獲得に貢献しました。
ここから考えると、
日本の近代化は、まず繊維が外貨を稼ぎ、その資金と技術が鉄道・鉱山・機械・電力へ広がっていった
と見ることができます
生糸が稼ぎ、銅山が産業を動かした
明治日本は、鎖国に近い状態から開国し、欧米列強と向き合うことになりました。
そのとき、日本が世界に売ることができたものの代表が、生糸と茶でした。
特に生糸は、欧米で高級品として需要があり、日本はその輸出によって外貨を得ました。
そして、その外貨や商業の力を背景に、国内では近代産業が育っていきます。
代表的なものが、
製糸業、紡績業、鉱山業、鉄道、電力、機械工業です。
古河市兵衛の歩みは、その象徴のように見えます。
最初は、生糸貿易で力を発揮した。
その後、小野組の破産を経て、渋沢栄一らとの関係の中で鉱山経営に進んだ。
そして、足尾銅山を発展させ、古河財閥の基礎を築いた。
つまり、
繊維の商いで培った商才・信用・資金(渋沢栄一との信頼関係による資金)の流れが、銅山という重工業へつながっていった
とも言えます。
足尾銅山と繊維産業のつながり
一見すると、足尾銅山と繊維産業は関係がないように見えます。
しかし、近代産業の流れで見ると、深くつながっています。
足尾銅山で採掘された銅は、電線や機械、電力インフラに関係していきます。
電気が普及すれば、工場のモーターが動きます。
工場のモーターが動けば、製糸機械、紡績機械、織機、撚糸機も安定して動かせるようになります。
つまり、銅山は電気や機械を支え、電気や機械は繊維工場を支え、繊維工場は日本の輸出産業を支えた。
このように見ると、繊維、鉱山、電力、機械は別々の産業ではなく、日本の近代化を支えた一本の流れの中にあったと言えますね🤓
日本はどうやって「鎖国の国」から「世界に誇る国」になったのか
日本は明治になって、急にものづくりが得意な国になったわけではありません。
江戸時代から、日本各地には農業、養蚕、染め物、織物、和紙、漆器、金属加工など、地域ごとに高い技術がありました。
職人の手仕事や、まじめにコツコツ作り上げる力は、すでに日本の中に根づいていたのだと思います。
そこに、開国によって海外の技術や考え方が入ってきました。
当時の日本がまず世界に売っていたものは、今のような自動車や機械ではなく、生糸や茶でした。
特に生糸は、日本にとってとても大切な輸出品で、外貨を稼ぐ大きな柱でした。
その外貨が、工場を作る資金になり、機械を買う力になり、鉄道や鉱山、電力などの近代産業を育てる土台になっていきます。
富岡製糸場のような施設が作られたのも、生糸の品質を上げ、大量に安定して作るためでした。
ここで大事なのは、繊維産業がただの輸出品だっただけではなく、日本に近代的な工場の仕組みを根づかせる入口になったということです。
やがて、生糸や茶で得た力は、鉱山、鉄道、電力、機械へと広がっていきます。
足尾銅山のような鉱山では銅が採れ、その銅は電線や機械、インフラに使われました。
鉄道が物流を変え、電気が工場を動かし、機械が生産を大きく変えていきました。
最初に日本を支えたのは、生糸や綿糸、絹織物といった繊維を中心とする軽工業でした。
しかし、その積み重ねがあったからこそ、のちに鉱山、造船、鉄鋼、電線、化学工業といった重工業へ進むことができたのだと思います。
つまり、日本の近代化は、いきなり重工業から始まったのではありません。
江戸時代からの手仕事の技術があり、
生糸や茶で世界とつながり、
繊維で外貨を稼ぎ、
その力で鉱山や鉄道、電力、機械を育てていった。
そう考えると、日本が「鎖国の国」から「世界に誇るものづくりの国」になっていく流れの根っこには、やはり繊維産業の存在があったのだと感じますね🤓

回、足尾銅山を見てもう一つ強く感じたのは、鉱山は単に銅を掘る場所ではなく、さまざまな技術が生まれる場所だったということです。
たとえば、石川県小松市のコマツは、遊泉寺銅山を採掘する鉱山機械を作るために設立された小松鉄工所をルーツに持っています。鉱山を支えるための機械づくりが、のちに世界的な建設機械メーカーへと発展していきました。
同じように、足尾銅山でも、採掘を進めるために掘削技術が発展しました。
足尾では、当初は外国製のさく岩機を使っていましたが、部品の調達や修理が難しく、また日本人には扱いにくい面もありました。そこで、修理部品を自分たちで作るところから始まり、やがて日本人の体格に合った小型の国産さく岩機が開発されます。
この「掘る」「砕く」という技術は、現在のトンネル工事、道路工事、ダム工事、鉱山開発、建設機械、ロックドリル、油圧ブレーカなどへとつながっています。
つまり、足尾銅山で磨かれた技術は、今の社会インフラを作る技術の一部にもなっているのです。
一方で、足尾銅山には鉱毒問題という大きな負の歴史もあります。銅山の発展は、日本の近代化を支えましたが、その裏側で渡良瀬川流域に大きな被害をもたらしました。
しかし、この問題に向き合う中で、排ガス処理、粉じん回収、排水処理、硫酸回収、副産物回収といった技術も発展していきました。
煙をそのまま出さない。
有害な水をそのまま流さない。
捨てていたものを回収し、別の資源として使う。
この考え方は、現在の産業廃棄物処理、排ガス処理、排水処理、リサイクル、都市鉱山、資源循環の考え方にもつながっています。
足尾銅山は、日本の近代化を支えた場所であると同時に、産業の負の部分と向き合い、それを技術で乗り越えようとした場所でもありました。
ものづくりには、光と影があります。
大切なのは、発展の裏側にある問題を隠すことではなく、そこから学び、技術を進化させていくことだと思います。
そう考えると、足尾銅山は、銅を掘った場所というだけではありません。
日本の掘削技術、機械技術、環境対策技術、そして産業廃棄物処理や資源循環の考え方につながる、近代産業の原点の一つだったのだと感じます。
鉱山の課題
銅を掘る・砕く・運ぶ・水を抜く・煙を処理する
↓
足尾銅山で発展した技術
さく岩機・破砕機・ポンプ・集じん装置・排ガス処理・硫酸回収
↓
現代につながる技術
トンネル工事・建設機械・インフラ整備・排水処理・排ガス処理・産業廃棄物処理・資源循環
↓
学び
産業の発展には、環境と安全を守る技術も必要になる
足尾銅山は、その「光と影」の両方を学べる場所です。
最後に、写真で足尾銅山の旅の風景を乗っけておきますね


























最後に、『安全第一』と言う言葉もここが発祥との事、近代産業はスタートはいくつもあると思いますが、ここは間違いなくその一つで、そこから日本全体に広がった技術や考え方は多いのだと思いました。
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